【特集】梅棹忠夫を偲ぶ 末原達郎 農学研究科教授 「知的探求への先導者:梅棹忠夫先生とその本」(2010.08.01)

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何度も何度も、繰返し読む本がある。僕の場合、それは夏目漱石と梅棹忠夫の本である。

梅棹先生を知ったのは、中学生の時だった。『サバンナの記録』(朝日新聞社)を読んで、強い衝撃を受けた。アフリカのタンザニア共和国の、サバンナの中にある2つの小さな京大の基地のまわりに生活している、ごく普通の人々の話である。

京都の、屋根と屋根とがくっついた街の中で読むと、サバンナに住む人々の生活は、想像できないほど遠く、まったく別の世界のできごとのように思えた。しかし、梅棹先生の文章は、その距離をぐっと近づけてくれる力があった。ハッツァ(タンザニアの民族名。以下同様)やダトーガの男たちが、まるで日本語で話をしているかのように思えた。

高校生になると、『人間にとって科学とはなにか』(湯川秀樹との共著、中公新書)や『知的生産の技術』(岩波新書)が出版された。大学も高校も政治の嵐が吹きあれていた。僕も友人たち同様、『文明の生態史観』(中央公論社)を読み、B6の京大式カードを使い始めていた。

僕は、浪人して京大の農学部に入った。それまで、がまんして受験勉強をしていたので、大学に入ったら、きっと自由な学生生活にしようと思っていた。自由になったら、自由な勉強をしよう、と考えていた。

入学する年の3月に、梅棹先生の編で『探検と冒険』(朝日新聞社)というシリーズが出版された。その第1回配本がアフリカだった。僕は、またサバンナの世界を思い出した。たまたま、その中の1章を、米山俊直先生が書かれていた。米山先生は京大の農学部の大学院の出身だった。そこで、3月のある日、米山先生に電話をした。米山先生と話をして、僕は、いつかアフリカの研究をやろうと思った。ぜひとも、アフリカ農業の研究がしたいと思っていた。

4月になって大学が始まると、東一条の交差点の角にあった人文科学研究所に出向いて行った。ちょうど、梅棹先生が主催される共同研究会が開かれていた。しかし、学部の一年生は人文研の研究会には出席できないというので、かわりに近衛ロンドを紹介された。その後、人文研の研究会には、大学院生になってから参加するようになった。

近衛ロンドというのは、京大を中心に形成された人類学の自主的研究会である。正式名称は京都大学人類学研究会といった。近衛通りに面した楽友会館で、毎週水曜日の夕方、例会が開かれていた。人類学だけでなく、さまざまな研究分野の報告、特にフィールドワークに基づいた研究報告がなされていた。自主研究会であったから、大学は問わない。京大だけでなく、さまざまな大学の教官や研究者、学生が参加していた。

人数は毎回10人から30人と、それほど多くはなかった。毎週欠かさず開催され、コーヒーかお茶が出された。教官も学生も、自分たちでわずかなお金を出して、部屋代と飲み物代と資料代(コピー代)とを支払っていた。もちろん単位はでなかった。毎回、1時間半ほどの報告があり、さらに1時間近く、ディスカッションが行なわれた。京大からは文学部、理学部、農学部、工学部、医学部、薬学部、教養部、人文研、東南アジア研などの教員や大学院生、時には学生が、学部を超えて発表していた。その中心に、梅棹先生がおられた。近衛ロンドは、もともと梅棹先生の自宅で開催された研究会から出発している。しかし、1973年になると、梅棹先生に代わって、米山先生が近衛ロンドの事務局を担当されることになった。梅棹先生は、その年から国立民族学博物館(民博)の創設準備室長を務められ、いよいよ、民博に研究室も移されることになったからである。

近衛ロンドには、日本中から、多くの研究者が京都に立ち寄って報告をした。外国の著名な研究者も、京都を訪れた時には、近衛ロンドで報告をした。近衛ロンドを通じて、僕は、京大の自由な研究の醍醐味を、少しずつ味わうことができた。
近衛ロンドの場で、直接話を聞いた人、知りあいになった人は多い。今西錦司先生が、自然学の提唱を最初に発表されたのも、近衛ロンドの場であったと思う。

大学の1年の時に、僕は探検部にも入った。これも、梅棹先生の本の影響を受けている。しかし、僕が探検部に入った時、探検部は存亡の危機にあった。かつてのように、部員が20人も30人もいて、海外調査をする時代ではなかった。大学紛争が始まり、探検部もその影響を受けていたため、部員数は大幅に減少していた。部会では、毎回、夜遅くまで議論が続いていた。もうこのころには、梅棹先生は、探検部には直接関わっておられなかった。梅棹先生は、民博を開館させるために、とても忙しかったのだと思う。それでも、僕らは、探検部で山に登ったり、海に潜ったり、山村や漁村を歩いて話を聞いたりしていた。

今から考えると、僕は梅棹先生に出会うのが、少し遅かったのかもしれない。何度もお目にかかり、いくつか大切なことを教わったが、梅棹先生は、僕が京大にたどり着いたらすぐに別の場所に移られていった。したがって、梅棹先生から直接文章を直してもらったり、フィールドワークで鍛えられたことはない。それは、僕よりも少し上の世代までのことである。

それでも、数多くのことを、梅棹先生から習ったと思う。梅棹忠夫先生のもつ考え方の大きさと柔軟さ、それに、なによりもフィールドワークを重視する考え方である。

全体としての梅棹先生の大きさは、これは僕だけの考え方かもしれないが、「境界を超える」というところにあったのではないかと思っている。

まず、学問の境界を超えること。既成の学問ではとらえきれないが、現代にとって最も重要なものに対しては、研究領域を超えて挑んでいき、新たな地平を切り開く。最初はなかなか理解されず、制度としても認められないが、やがて新しい学問分野を創設していく。梅棹先生には、それだけ強い信念があり、それを実現する実行力があったように思う。

2番目は、国の境界を超えること。国境を超えて、世界各地を旅された。民族による差別はなく、アフリカでも、アジアでも、ヨーロッパでも、同じように出かけて行き、同じように研究された。自分の足で歩き、自分で話を聞き、自分の目でものを見、そこに住み込んで自分の頭で考える。しかも、そこで得たものを、ちゃんと記録し、分析し、読書をし、さらに文章化するという作業を、たいへん大切にされていた。 3番目には、これは京大全体の基本的精神にもつながるものかもしれないが、パイオニアワークをしようという姿勢である。自分のオリジナルな研究をし、それを世界に向けて発信していく。梅棹先生の場合、その基本には、やはり山登りや探検があったのかもしれない。未知なる山、未知なる世界に挑んでいこうという気持ちは、学問の世界にも共通である。

僕は、梅棹先生から直接、手とり足とり習ったことはない。しかし、梅棹先生の書かれたものから、今でも、多くのことを教わっている。梅棹先生の本は知と発想の宝庫であり、同時に自分の文章を鍛える道場でもある。今度、タンザニアを訪れる時にも、『狩猟と遊牧の世界』(講談社学術文庫)と『京都の精神』(角川文庫)をポケットに入れていこうと思う。


すえはら・たつろう
農学研究科教授

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