文化

【特集】梅棹忠夫を偲ぶ 小長谷有紀 民博・民族社会研究部教授 「フィールドワークから文明論にいたる秘密」

2010.08.06

梅棹忠夫先生に初めてお会いしたのは、私が修士課程を終えて博士課程に進んだ1983年頃だったと思います。京都大学人文科学研究所の谷泰先生に引率をお願いして、国立民族学博物館(以下、みんぱく)の研究室に梅棹先生をお訪ねしました。

私は1979年、学部生時代にモンゴルへ留学し、モンゴル研究を開始しましたけれども、モンゴルは当時、ソ連と中国にはさまれた、社会主義国でした。中国領土内の内モンゴル自治区も含めて、モンゴル高原はすっぽり社会主義圏に入っており、フィールドワークが許可されません。いわゆる民族学や文化人類学らしい仕事がしづらい場所だったと言えるでしょう。そこで、研究資料を求めて梅棹忠夫先生をお訪ねしたのです。1940年代にモンゴル高原で調査されたフィールドノートを私に貸してください、と。

回答は即答。ノーでした。自分で整理するから、とのことでした。どんなに忙しくしていらしても、ご自身の青春の情熱を傾けたフィールドワークの証は、自分自身で整理したいという願望をお持ちだったのです。

やがて1986年、私は京都大学文学部で地理学教室の助手として勤めることとなり、翌年、みんぱくの助手へと異動しました。すでに梅棹先生はほとんど失明されており、一方で、著作集の刊行というプロジェクトが企画されていました。そのため、みんぱく着任後の私の最初の大きな仕事は、梅棹忠夫著作集第二巻『モンゴル研究』(刊行は1990年)を編むこととなったのです。当該書の内容については、巻末に付した解説「梅棹忠夫の玉手箱」に記しましたのでご参照ください。ここではそこには記さなかった大切なことを述べたいと思います(以下、敬称略)。

「玉手箱」と私が称したのは、梅棹忠夫によるモンゴル調査当時の資料類を納めた整理箱のことです。そこにはいろいろな資料がありますが、もっとも目を引くのは、きちんと番号を付けられて、番号順に並べられたフィールドノート群です。40冊ぐらいあったと記憶します。現在、研究者たちがしばしば用いるポケットサイズの手帳と比べると、縦に短く、横に長く、分厚く、外見はアドレス帳のようです。

それらのフィールドノートには、びっしりといろいろなことが書かれていました。図もあります。モンゴル縦文字でモンゴル語も書かれています。現地の人びとの生活の一端が書き込まれているのです。例えば、フェルトを縫っているというシーンがあれば、そのシーンを描写するとともに、誰がしているか、その工賃はいくらかなど、その場にいあわせている人びとに関することはもちろんのこと、そのときは見えていないだろうことまで書かれています。例えば、ほかに誰が同じような仕事をするかとか、いつからこういう作業をしているかとか。聞き込まなければ決してわからないことが書かれているから、フィールドワークのようすを如実に思い浮かべることができるのです。

そして、もっとも肝腎なこととして指摘したいのは、それらから論文は書かれていない、ということです。だったら、そうした書き付けは無駄だったのでしょうか?

聞き取ったことをすべてそのまま生かして論文を書くことができれば、それほど効率的なことはありません。効率を目的として研究するのなら、論文に書くテーマをまず設定し、そのテーマに沿ってのみ聞き取り調査を行えばいいでしょう。また、現在では、そのような効率的な設定でなければ外部資金を得ることはできないでしょう。しかしながら、研究が目的なのであって効率が目的なのではありません。研究のための情報収集であるフィールドワークは、情報をあらかじめ有用と無用とに区別するものではない、ということを梅棹忠夫のフィールドノートは雄弁に物語っています。そこに書き込まれているあらゆることがすべて情報であり、論文に書くという点で役に立つかどうか、それがいずれ使われるかどうか、そんなことはまったくどうでもいいことなのです。

新聞記者に例えれば、記事になるかならないかを取材時に判断してメモをするようでは、自分の脳の能力の程度を超えてインプットされることはありますまい。アウトプットがさらに減少することは必定です。もしくは自分の脳が描く幻想が加わるだけでしょう。しかし、徹底して記録すれば、言い換えれば、自分が気に入る点だけをメモするのでなければ、自分の判断を超えたものがインプットされていくことでしょう。新聞記者を研究者に入替えても事情はもちろん同じです。

梅棹忠夫の、なんでも聞き取り、書きつけるという、身を粉にするような情報収集の態度によって、おそらくモンゴルは彼にとって身体になっただろうと思われます。梅棹忠夫のフィールドワークは〈情報を身体化する技法〉なのです。目的は論文というアウトプットではなく、情報収集というインプットなのです。〈実態視の力〉と言ってもよいかもしれません。

ずっと後になって展開される『情報産業論』(1963年)や『知的生産の技術』(1969年)はいずれも、彼のこうした徹底した、〈情報収集のための情報収集作業〉が構想の基盤となっていると私は思います。
インプットが目的だからといって、アウトプットがないということではありません。小さな特化した目的の諸論文はそれほど多くは書かれませんでした。例えば、たくさんのメモにフェルト作りに関する情報があるからと言って、それらをまとめてフェルト作りに関する論文は書かれませんでした。けれども、彼にとってモンゴルは身体化されているので、それが『文明の生態史観』の知的基盤になります。例えば、第二地域の特徴として外部からの影響を設定したり、類型の一つとして乾燥地域の遊牧民の圧力を設定したりする点は、モンゴルやその後のアフガニスタンでの実態視力の成果にほかなりません。

ここで疑問となるのが、こまごまとしたことばかりを書き付けたフィールドノートから、大きな枠組みで世界を考察するところへ飛躍するまでのあいだの知的営みです。どうしてそれができたのか。もちろんそれは彼の才能にほかならないのですが、もし凡人でもまねができるとすれば、要点は二つです。一つは本をよく読むこと。梅棹忠夫の所蔵印のある書籍を見れば、彼がフィールドワークの事前も事後も、関連書をよく読んでいることがわかる書き込みがあります。もう一つはよく話すこと。梅棹サロンと称せられていた若者との対話の場が情報を思想に転換する装置だったと思われます。

Think Global, Act Localと言えば、環境問題が産んだ現代の標語であることからもわかるように、〈現場を見て未来を構想する必要性〉は今日ますます増しているのではないでしょうか。

注:みんぱく梅棹資料室によれば、私が訪問したのは1984年3月13日、館長室。


こながや・ゆき
国立民族学博物館民族社会研究部教授