【特集】梅棹忠夫を偲ぶ 髙田公理 佛教大学社会学部教授 「梅棹忠夫の学問的業績-プラトン、マルクスと並ぶ」(2010.08.01)

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「ぼくは二流の学者ですよ。そやけど日本に、一流の学者て、いますか?」

フランス文学者にして、京大人文研の共同研究のリーダーだった桑原武夫が得意とした、痛烈かつ洒脱なレトリックのひとつだ。その桑原も、「文明の生態史観」を書いた後輩の梅棹忠夫には、きわめて高い評価を与えていた。

不思議はない。結論を先にいえば梅棹は、人類文明史における3つの大転換を思想化した3人の1人なのだ。

その3人とは誰か。1人目は、農業革命によって成立した国家とそこに生きる人間の魂の構造を捉え直した古代ギリシャの哲学者プラトンである。2人目は、産業革命がもたらした工業社会の論理をしゃぶり尽くし、その殉教者ともなった19世紀ドイツの経済・社会思想家カール・マルクスである。そして三人目こそ、人類史における第3の革命である情報革命を受肉化し、その到来を的確に予測した梅棹忠夫にほかならない。

1920年、京都の商家に生まれた梅棹は、大正デモクラシーの豊かで自由な気風を呼吸しながら、昆虫への興味をきっかけに、大自然への遊戯的な好奇心を育んだ。それが三高時代に植物と登山に広がる。そこで彼は、京都帝国大学理学都動物学科に進学する。それは、第二次大戦のまっただなかに、のちに自然学をとなえることになる、これまた巨人の今西錦司が、いくつもの海外学術調査を始動させた時期でもあった。

こうして梅棹は、1941年にポナペ島、その翌年に大興安嶺、1944年から2年間はモンゴルの張家口での野外調査に従事することになる。そして1946年の帰国後は、オタマジャクシを素材に「動物の社会干渉」を研究。これが1961年、博士論文に結実した。このように梅棹の学究史は、動物の生態学的研究に端を発している。

ただ、2年間のモンゴル滞在の過程で、彼の関心の対象は、羊をはじめとする家畜の群れから、その飼育を生業とする牧畜民とその社会へと発展的に推移していったようだ。そのため、1955年のカラコルム・ヒンズークシ、1957、8年の東南アジアヘの学術調査には社会人類学者として参加。このころ、彼のその後に向かう先が決定された。

以来、その展開は、驚くほど速い。1955年の海外調査からの帰国1年後に、最大の学問的業績の一つである「文明の生態史観」の執筆に着干し、それが翌年2月号の『中央公論』に「文明の生態史観序説」という表題で掲載される。それは、その直前に来日したA・トインビーの〈挑戦〉的な学説、すなわち、誤解を恐れず極度に単純化すれば、「現存する地球上の六つの文明のうち、健全さを残しているのは西洋文明だけで、日本文明も12世紀から解体側に入っている」とする学説にたいする〈応答〉として執筆された。

この学説で海棹は、多様な文化の系譜に煩わされることなく、ユーラシア大陸を2つの地域に大別する。1つは大陸の東西の端に位置し、20世紀に帝国主義的侵略をやった国ぐにからなる第一地域である。2つ目は、大陸の中央部に位置し、第二次世界大戦後の当時、勃興しつつあった国々からなる第二地域である。

こうすると歴史は、古代奴隷制から中世封建制を経て近代資本制、さらに未来の共産制へと必然的に発展すると考える、マルクスに典型的な一本道の進化史観(=史的唯物論)によっては容易に説明できなくなる。

そこで梅棹は「進化への類推」にかえて、生物の共同体の歴史を実証的に捉える「サクセツション(遷移)」という生態学の概念を用いて人類文明史を説明する作業仮説「生態史観」を提起する。それは、要約すれば「主体(=ある地域の社会)と(それを取り巻く)環境との相互作用の結果が積もり積もって、それ以前の生活様式ではおさまらなくなり、つぎの生活様式に推移する現象」だという。

背景には、梅棹の学究史の初期を彩った生態学の素養があり、中央アジアの内モンゴルで出会った牧畜という、工業社会を生みだすことになる農業とは、まるで異なった生活様式の体験がある。その結果なのだろう。生態史観は、社会変化のパターンが多様でしかありえない必然性を提示することで、近代世界を支配した西洋文明の絶対優位という「神話」を解体し、同時に日本人の、理由のない「西洋への劣等感」の払拭にきっかけを与えた。

それは、単なる学説という以上に、新しい思想の出現であった。同時に、驚くべき広がりと豊饒さで噴出する、その後の梅棹の言説と活動の源となった。

その典型の一つが、アルビン・トフラー『第三の波』より20年近くも早い時期に発表された「情報産業論」(1963年)である。そこで梅棹は「動物発生学」を踏まえながら、トフラーよりもずっと包括的、かつ本質的に農業革命と産業革命に続く人類文明史における第三の革命を論じた。

なかでも特筆すべきは、今日なお大方の議論が情報化の目標を「産業社会の効率の向上」に設定しがちなのに対し、梅棹がそれを「脳・神経系の充足」だと捉えた点である。つまり「情報」こそは「よりよい生活」をめざす人間の営みを支える文明が、物質エネルギーの充足の果てに希求する「精神の遊びと楽しみ」を可能にするという。

だからこそ彼は、人類文明の到達点と多様な民族文化を展覧し、それを遊び楽しみ、かつ学ぶ日本最初の国際博EXPO70に積極的に参与したのだと思われる。

そしてその後は、多様な民族文化を研究し、広く一般に公開する国立民族学博物館の創設と運営に精力を注いだ。それは「文明の生態史観」で論じた生活様式の多様化の必然性とそれぞれの価値の等価性を読み解き、それを各種の生活用具を媒体とする一種の情報として提示することによって、日本と世界の人びとが遊び楽しみながら、何かを学び、考える契機を提供する試みであった。

それでも彼の知的探求は終わらない。日本の都市に文化開発の種を蒔いたかと思うと、パリのコレージュ・ド・フランスで、近代という時代に西洋と対等に伍しえた日本文明の特質を講義する。文明史における女性の役割を論じたかと思うと研究活動の経営論を発表する。京都文化への深い思い入れを吐露したかと思うと、独特の人生論を展開する。それは文字通り「情報革命を受肉化した知性そのもの」だというほかない。

しかも、いずれにも斬新な独創と見事な説得性が満ちている。その根底には、本人自身が「やや危険思想だ」と語る、あらゆる存在に、ただ知的な面白さだけを追求する純粋な「遊びの精神」かある。それが、異なった価値観に支配される論民族の世界を渡り歩くことで培われた強靭な相対観と、やや唐突だが、千年以上もの間、権力の興亡が繰り返されてきた京都という土地に特有の、無辺の虚無感に支えられることによって、人類文明への冷徹で包容力に満ちた思想に結晶したのだ。

そんな梅棹の人となりを、もっとも身近な年下の学者仲間の一人である石毛直道は「虚無にあそぶカルテジアン(デカルト主義者)」という卓抜の一言で捉えた。それは、役に立つことを懸命に追求した20世紀という時代を、そこに底流したデカルト主義に立脚しながら、しかし他方では根底からくつがえそうとする知的遊戯に、人生のすべてを費やした一流の学者への最高の賛辞であるように思われる。


たかだ・まさとし
佛教大学社会学部教授

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