文化

〈生協ベストセラー〉 J.D.サリンジャー著 村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)

2010.04.30

世の中にはとにかくたくさんの本が出回っていてその総数を確かめるなどということは非常に難しいように思えるが、私たちの記憶に残るようなわずかな『名作』の中には、読むたびに違う印象を与えるものがある。これについて異論を唱える人は多くはないと信じたい。

私が初めて『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだのは小学校の最後の年だった。そのころはまだ村上春樹訳は出ていなくて、野崎孝訳で『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルだった。むしろこちらの方が有名だろう。「ホールデン(この本の主人公)は結局何がしたかったんだ?」というのがその時の素直な感想だった。2回目に読んだのは、中学校の図書館で新訳版を見つけた時だった。思春期に突入したてだったあの頃にはあまりにも刺激的だったように思う。クールにキメようとしていつも何かしらずっこけてしまうホールデンが身近な感じで好きだったし、彼の「誰もいないところへ行って一人で暮らしたい」という欲求も理解できた。家出とか旅という言葉はワクワクするというか、ゾクゾクするような魅力をもって私には見えていた。そして「そういう思いを味わったのは、なにも君だけじゃないんだ」というミスタ・アンドリーニの言葉に半信半疑ながらもホッとしたのを覚えている。

そして今回、この書評を書くにあたって3度ページをめくることになったのだが、私も大学生になると、たとえ多くはなく、また格別優れているわけではないにしても、やはり人間、それなりの人生経験という胡散臭い何かしらを体内に蓄積している。グッと来る一言をもたらしてくれたミスタ・アンドリーニも人間臭いというか胸に溜まったドロドロの欲望を持っているし、ホールデン自身も周囲の同年代の少年たちや大人たちを嘘やおためごかしで顔を塗りたくった「インチキな奴ら」と心の中で罵りつつ、表面上は何ともないような顔をしている。そういうことが解るようになったのが果たして精神衛生上よろしいのかどうか議論の余地は大いにあると思うが、少なくとも鼻水をズルズル垂らしていた頃には他人の心中を慮って気分が悪くなるようなことはなかった。人の気持ちを思いやるというのはストレスがたまるし、だからこそ私たちは「童心に帰る」のだ。

ホールデンもこの「幼年時代への憧れ」というものを持っているらしく、というよりもむしろ他人よりも余分に持っているようで、弟のアリーや妹のフィービーに対する溺愛ぶりと言ったら、もはや崇拝に近い。そしてホールデンは(そしてひょっとすると私たちも)子供の無邪気さが、博物館のガラスケースの中の剥製かミイラ(本作では「不変のもの」としてこれらのモチーフが何度か登場する)と同じように、永遠に変わらないものかのように錯覚しているようで、その変化というか反抗に面食らい、打ちひしがれ、どうにかご機嫌をとってあの無邪気な笑顔を復活させようとするのだ。もっとも、振り返って考えてみると、初めて本書を読んだ当時の小学生だった頃、自分が無邪気な子供であったかと尋ねられると、私は自信を持って答えることができない。(書)

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