複眼時評

森毅 名誉教授 「河合隼雄を偲ぶ」

2007.10.01

「京大やめたら、森さんと組んで吉本にデビューしような。」と彼は言っていた。ところが、僕が彼より一年早く定年退官。芸能界で吉本の芸人さんとつきあいを拡げていたのに、彼は日文研につかまって所長、はては文化庁長官になってしまった。さすがウソツキクラブ会長。

しかし考えてみれば、文化というものはウソによって成立する。彼は数学科出身だが、ウソの数である虚数によって、数学の文化が姿を現わす。日本文化については、神話や平安文学は材料にしてきたが、室町文化や江戸文化に触れたものはない。文化庁長官になったとき、室町江戸の古典芸能につきあうことが増えて、「これからの課題や」といっていたものだが。その近松によれば、「虚実皮膜の間」に文化は成立する。

そうであれば、文化庁長官というのはウソツキクラブ会長と読める。大学は、真理の府ということになっているが、それを支えているのは文化というウソ。虚と実の二重性というのは彼の終世のテーマだった。所長とか長官とかになると長のほうをたてねばなるまいが、そこで裏の影を楽しむのが河合流。そうしたねじれに身をおくという決意。「森さんは決意というのが苦手やろな」と言われたっけ。最初に対談をしたのは、彼が天理大から京大へ移る前後だったと思うが、印象的だったのは、「ヤブの臨床医ほど診断を急ぎたがる。それはなにより、診断を決めてマニュアルに従うことで、自分が安心したいからや」の言。

これは河合のスタンスを語っている。「二つよいこと、さてないものよ」というのは彼のコピーだが、光と影の二重性に身をおくというのは不安定でいくらか疲れる。二十年ぐらい前だったと思うが、ボーダーライン症候群というのが話題になりだしたころ、公開シンポに呼ばれたことがある。たぶん、病気と正常の境目ということで名づけられたのだろうが、この症状はなんにでも正邪を分け、正準を求めて線を引きたがるので皮肉。京大の学生を見ても、カノンとしてのテキストを求めたり、判断の基準を一つの尺度に求めたがる傾向は、進んできている。うつ病系の表われ方は、時代によって違いがあるらしいが、それが時代の病いとして普通名詞になる。メランコリーとか、ヒステリーとか。今の時代の病いは、ボーダーライン。どうせ流動化や多様化は進むだろうから、そうした不安を包摂できるようにすることが若者にとっても課題のはず。教育再生会議とかいうところに、そうした認識はあるのでしょうかね。

最後に会ったのは、小樽のシンポジューム(『学ぶ力』岩波)。シャルル・フーリエの情念論を紹介して、ややこしさを楽しむ。「ややこしさの情念」を議論したかったが、その楽しみを次の機会にしたのが残念。河合の本はありすぎて、一つあげろと言われると困ってしまうが、僕の好きだったのは『中空構造日本の深層』(中央公論)。読んだとき、彼の自宅に電話をかけたっけ。これも二項対立より三極構造だが、千歳から小樽のホテルまでのバスの間、人間の知にとっての「三」の意味について、語り続けた。

価値合理性(聖)、目的合理性(俗)の二項対立に、無償性(遊)の第三項をたてる、といったぐあいに。考えてみれば、ぼくの彼とのつきあいは、かなり遊の極にひっぱられていたけれど。

そのときのテーマは「学び」で、次の年のテーマは「笑い」。こちらのほうは出ていないが、なにより彼から学んだのは、僕が道化的理性と名づけているもの。おそらくは臨床体験に支えられていて、彼にはシェークスピアに関する対談集もあるが、道化性の意味は人間文化にかかわる。天性の身についたものや、京大生時代に兄の雅雄とともにみがいたものでもあったろうが。

彼の交友が、さまざまの文化人にわたって広いことは、『河合隼雄を読む』(講談社)でわかる。もちろん、文化人だけではなくて、心理療法で接したクライアントたちもあったろうが。さまざまの文化人とつきあうのは楽しいが、難点はそれが貴族的サロンに閉じてしまいかねぬこと。サロンがアリストクラシーにならないために道化が必要となる。みずからを道化にすることが、なによりの批評精神。批評には根底に自己批評がある。批評には道化的理性がなくてはならぬ。

戦時下に非国民少年として同時代体験を共有した友人を失うのは悲しい。しかしながら、どんなときでも、道化には涙より笑いがふさわしい。


もり・つよし 京都大学名誉教授